貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

伊達家の重鎮とはどんな人物か

f:id:kuromekawa28:20160511194330j:plainPHP文庫

 伊達成美(しげざね)は、政宗の祖父晴宗の弟の実元の子で、政宗の父輝宗とは従兄弟の関係である。伊達家臣団の中でも猛将として知られ、天正13年の陸奥小手森城攻めでは城内の男女800人を皆殺しにして、その後の人取橋の戦いでは劣勢の伊達軍にあって善戦したことでその後、東北を代表する戦国大名となった。

 

 ただ、猛将ではあったが、時代を読む力はあまりなく、豊臣秀吉による小田原攻めの際には、参陣を勤める片倉景綱の意見に最後まで反対して政宗の小田原参陣が遅れた。

その頃から、主君の政宗との軋轢が生じ、朝鮮出兵には政宗に従って出陣はしたが帰国後に出奔してしまった。浪人となったことを知った上杉景勝が5万石で召抱えようと声をかけたが、応じなかった。結局、慶長5年に片倉景綱留守政景・石川昭光らの説得により帰参し、亘理城の城主として返り咲き、一門に列せられた。

 

 その後は、元和元年の大坂夏の陣にも政宗とともに出陣し、伊達家の重鎮として生涯を終えた。

織田信長に追放された古参家臣とは

f:id:kuromekawa28:20160425194955g:plain佐久間信盛

 信盛が他の家臣と違うのは、あの独裁者信長に、建言、諫言をしていたことである。たとえば、弘治元年に出奔した叔父の信次の尾張守山城へ、信長の兄弟の秀俊を入れるように建言してその意見が採用された。

 

 これは織田軍の躍進を支えていた活躍、信長による近江攻略で柴田勝家の守る長光寺城とともに、信盛の永原城が六角義賢・義治軍との戦いの拠点となっていた。しかし、天正元年の小谷城攻めの時には、朝倉軍の退却を信盛らが見過ごし、信長から叱責されるということもあったが、この時、他の武将たちは叱られっぱなしであったが、信盛は「そうは言っても、我々ほどの者は他の大名の家臣にはいない」と抗弁もしていた。

このように、信長にはずけずけとものが言えた1人だった。信長はこれらに機嫌を悪くしたが、信盛の実力を高く評価していて、その後も大和平定に出陣している。

 

 これらは能力本位を重んじるいかにも信長らしい人事で、天正4年から本格化する摂津の石山本願寺との戦いでは信盛を総司令官にした。しかし、信盛はこれを攻めあぐねた。これに信長は、怠慢として19ヵ条の折檻状を突きつけ高野山へ追放した。その中には何と、7年前に信盛から抗弁を受けた1件も罪状に上げられていた。執念深い信長の性格が垣間見えるようだ。

 その後は、赦免されることなく、大和の十津川で信盛は病死した。

 

秀吉を読み違え自刃した武将

f:id:kuromekawa28:20160322165523j:plain佐々成政あえ

 佐々成政には二人の兄弟がいた。一人は長兄の隼人正、もう一人は孫介という。

弘治2年の尾張稲生の戦いで孫介が、永禄3年の桶狭間の戦いで隼人正が討死にし、成政一人が生き残った。

やがて、織田信長の親衛隊に加えられ、黒母衣衆の一員となった。同時期に、前田利家が赤母衣衆になっていて、2人のライバル関係が早くから始まっていた。

天正3年8月の越前の一向一揆鎮定後には、不破光治、利家と一緒に越前2部を与えられ、3人とも柴田勝家の与力になり、加賀、越中侵攻の戦いで大活躍して信長の北陸平定に貢献した。

賤ヶ岳の戦いでは、上杉景勝の抑えとして越中にいたため参戦せず、勝家が敗死した後、金沢で秀吉に拝謁して越中支配を任された。ところが、小牧・長久手の戦いでは徳川家康織田信雄陣営に与して秀吉陣営の前田利家と戦っている。

その後、天正13年8月に秀吉の大軍に攻められ、降伏したが秀吉に臣従する形で九州攻めで戦功をあげたため九州平定後に肥後1国を与えられた。ところがまたその後、肥後の土豪らによる検知反対一揆が起こり、自らの力で鎮圧できず小早川隆景黒田官兵衛らの力で収まったことから秀吉は所領を没収した。謝罪のため大坂に向かう途中に、尼崎にて切腹させられた。

 勝家の与力時代が長かったため、秀吉を見る目がなく、秀吉に敗れた勝家の意識に近く秀吉の正当な実力を評価できなかったのが、この結果につながったともいえる。

一門の名を上げた武将とは

f:id:kuromekawa28:20160310190822j:plain

 吉川経家は一門の名を上げた武将として知られている。

一族の吉川元春の要請により織田方の羽柴秀吉との戦いで、毛利方の最前線になると予想された鳥取城に送り込まれた。彼は石見(島根県)の福光城主の吉川経安の子である。

 

 経家が400人ほどの家臣を従えて鳥取城に入ったのは天正9年3月18日である。この時彼は35歳だった。城内はすでに1000人ほどの兵がいたが、秀吉軍が村々の百姓に乱暴を働き、百姓が城に逃げ込むように仕組んだこともあり、非戦闘員の女・子どもも多数いた。このことは、経家にとって大変な誤算で、本来なら冬まで籠城戦を戦い抜くことができるはずの兵糧が見る見る底をついていた。

 

 秀吉軍2万が7月12日から鳥取城を包囲し、兵糧の補給ができなくなると日に日に食糧が減り、草の根、木の皮など食べられるものは何でも食べ、かろうじて命をつなぐ状況となった。毛利輝元からの援軍の動きもなく、ついに降伏を決意し、自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けるように秀吉側に伝えた。

 

切腹の前日10月24日付けで、元春の三男広家に宛て「日本ふたつの御弓矢の堺において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」という遺書を残している。織田と毛利という二大勢力のまさに「ふたつの御弓矢の堺」において、毛利のために戦い切腹に至ったことを名誉に思うと綴っているのだ。

 

 また、切腹当日の25日付けで子どもたちには「我ら一人御ようにたち、おのおのをたすけ申、一もんの名をあげ候」と述べ、武将の責任の取り方を天下に示したみごとな死に方を見せている。

 

 

文化人としても生きた武将

f:id:kuromekawa28:20150515161857j:plain 三好長慶

 室町時代最後の武将で、もともとは阿波の守護細川氏の家臣でもあった。長慶の父・元長は、はじめ細川晴元を擁していたが、晴元が一族の三好政長と結託して元長を殺したことから長慶自身もしばらく不遇の時代を過ごした。

 

 天文11年になって、畿内で勢力を誇った木沢長政を倒し、7年後に政長をも討ち、細川晴元を近江に追放、さらに天文21年には足利義輝を京都に迎え、細川氏綱を傀儡管領にすえて幕府の実権を握った。このような快進撃を支えたのが、3人の弟たちである。すぐ下が之康、実休の号で知られ義賢とも之虎ともいわれている。その次が冬康で安宅氏を継ぎ、またその次は一存といって十河氏を継いだ。この3人が本拠地である阿波・讃岐、淡路などの国固めをし、長慶の中央進出の活躍を支えた。また、堺商人と結び、財政基盤を固めていたことも特筆される。

 

三好一族は茶の湯の隆盛に一役買っていたことでも知られている。大名物の茶器、九十九茄子を所持していた宗三と号した政長、長慶の叔父にあたる笑岩と号した康長も茶人として有名だった。また、長慶は茶の湯だけではなく、連歌にも熱中した。永禄5年に弟の之康が敗死した時には、長慶は飯盛山城で連歌会を開いている最中だった。使者が之康の戦死を伝えても、平然と連歌を続け、終了後に弟の死を一座の者達に報告したとされている。しかし、実子の義興(よしおき)の死後は気落ちして、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われてしまった。こうして、晩年は精彩を欠いたものとなった。

 

 

 

 

 内紛の中で勢力を伸ばす

f:id:kuromekawa28:20150417150000j:plain 津軽為信

江戸時代、陸奥国青森県)では津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったとされる。それは隣り合う藩同士だけではなく、津軽氏が南部氏内紛のどさくさにまぎれ自立していったからだといわれている。

 

津軽氏は、本来は南部氏一族の大浦氏で、大浦城を本拠に鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになっている。「津軽氏系図」によると、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信が、為則の死後に大浦氏を継いだことになっている。この為信が、本家の南部氏の内紛の間隙を縫って巧みに津軽全域の支配に成功したのである。

 

具体的には、天正6年に浪岡城の北畠顕村を攻め滅ぼし、同13年には千徳政武を田舎館城に攻め入りこれを落としている。こうして南部氏一族の部将から一代で、津軽地方を代表する勢力にのし上がり、「奥州の梟雄」とも称された。為信は津軽全域を支配した頃から名字を大浦から津軽に変えている。

 

豊臣秀吉の小田原攻めにも参陣し、それまでの津軽征服地の本領を安堵され天正19年の九戸政実の乱の鎮圧にも従軍した。この時の軍令状には、はじめて「津軽右京亮(うきょうのすけ)との(殿)へ」とある。中央政権から津軽の名を公認された形である。慶長5年の関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康方に属し、美濃大垣城を牽制する働きをして、その後は城を弘前城に移して近世の大名として生き残った。

謀略による下克上の連鎖

f:id:kuromekawa28:20150324140054j:plain宇喜多直家

 備前の守護といえば、赤松氏で守護代は浦上氏だった。その浦上氏に仕えていたのが宇喜多氏だ。直家の時に戦国大名にのし上がった。大永元年に、浦上氏が赤松守護大名を下克上により乗っ取り、その後の浦上宗景の代になって家臣の宇喜多直家の下克上で倒されている。まさに「下克上の連鎖」がこれである。

 

この現象は、直家の謀略的手段によって永禄2年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まった。二人は浦上宗景の重臣であったが、信正に招待された直家が酒に酔った信正を殺した上、城外に待機させていた家臣とともに信正の城を奪い、救援に駆けつけた観阿弥をも討ち取ったというものだ。

 

その後、直家は隣国備中で勢力を伸ばしつつあった三村家親も謀殺し、家親の後を継いだ子の元親と永禄10年に戦い、これを破って備前を代表する勢力にのし上がった。しかし、この段階まではまだ浦上宗景の家臣で、その2年後に公然と反旗を翻したのである。直家のすごいところは、その戦略眼である。この後に美作にまで勢力を広げようと城を岡山に移している。さらに毛利輝元との同盟に踏み切ったのだ。

 

実は三村元親と毛利輝元はゆるやかではあるが、すでに同盟関係にあった。それを承知で同盟を結ぶという挙に出たのだ。輝元としても、勢いのある直家と結ぶ方が有利と考えた上のことかも知れない。俗に言う「遠交近攻同盟」である。

 

直家は天正3年に、輝元の助けを借りて元親を討って領国を備中・美作にまで拡大し、2年後にはついに宗景も打倒したのである。守護代の一家臣から、下克上により戦国大名の最たる見本となった大名でもあった。