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越後の軍神・上杉謙信は本当に塩を贈ったのか

f:id:kuromekawa28:20150103192149j:plain 上杉謙信

 毎年のように関東に出兵し、信濃川中島武田信玄と5度も死闘を繰り広げた謙信の軍資金は大変豊かだったと言われているが本当なのか?

越後は昔から米どころだったからとか、佐渡の金山・銀山による収入があったからという人が多いが、戦国時代にはまったく縁の無い話しだった。

今でこそ「米どころ新潟」などと有名になっているが、謙信の時代には米よりも麻布の原料である青苧(あおそ)の作付面積がはるかに多かった。この青苧から麻糸を紡ぎ、それを織った製品が越後上布である。まだ衣料としての木綿が大量に流通していない段階では、特に京・大坂を中心にこの越後上布が一世を風靡していた。

戦国時代は船を使って大量の物資を運ぶのが一般的で、いわゆる北前船のルーツとも言うべき航路がある程度出来上がっていた。謙信の地盤である越後には、柏崎・寺泊・直江津などの港があり、謙信はそれらの港に出入りする船に「舟道前」という関税を課して、その収入たるや莫大なものがあったといわれる。

謙信はこうした経済力をバックに越後を統一し、他国への軍事侵攻を進めたのである。普通は戦いに戦功のあった家臣に与える恩賞は、新たに広げた土地というのが当たり前である。しかし、謙信の場合は異質で「義」が前提となっていた。

信濃川中島に出兵したのは、信玄のそれ以上の北進を阻止するためと信玄に逐われた高梨政頼、村上義清小笠原長時らの旧領を回復してやろうという義侠心からだったのである。

あの有名なエピソード「敵に塩を送る」は史実と異なるとの通説である。

身体障害者ながら勇猛果敢な武将だった

大友宗麟の軍師として知られる立花道雪という武将は身体障害者だった。

落雷のため足を負傷したことで、歩行も困難、馬にも乗れず合戦には参加できない状態だったが、家臣の助けを借りて手輿を担がせて乗り出陣していた。

しかも、味方の陣が崩れそうになると「この輿を敵の真ん中に担ぎいれよ。命の惜しい者は輿を捨てて逃げよ」と叫び、全軍を叱咤激励したという。誰も主人を置いて逃げるわけにいかず、そこに踏みとどまる形で、何時の場合も崩れかけた軍は勢いを取り戻したといわれる。

道雪はまた、軍師として活躍しただけではなく、主君の大友宗麟に対してしばしば諫言を行った。キリシタン大名として有名な宗麟は名君と同時に暴君でもあった。政治をほっぽりだして連日のように連歌酒宴に明け暮れる時があった。諫言をしようにも 近づけないため一計を案じ、京都から美しい踊り子一座を屋敷に呼び寄せ踊らせていた。その評判が宗麟の耳に入り、「踊り子を連れて登城せよ」との沙汰が出された。道雪は踊り子を連れて登城しては宗麟に諌言をした。家中統制にも気を配り、訓戒状を残してもいる。そこでは「いったん折檻をもうむることがあろうとも、ご意見を申し上げてこそ、はじめて家来といえる」と諌言の重要性を指摘している。

注目されるのは、男女差別をしなかった点である。

道雪には、誾千代(ぎんちよ)という名の女の子しかいなかったが、主君宗麟とその子義統(よしむね)の2人から誾千代に家督を譲る許可を取り付けていた。戦国期には、女性の地位は著しく低かった。後に誾千代が適齢期になり婿を迎えたが、それが立花宗茂である。

 

 

 

 

 

 

 

直江兼続は最強のナンバー2だった

f:id:kuromekawa28:20141220172211j:plain 直江兼続

 一国の組織の強弱は、その組織のNO.2の力如何で決まる。

あの武田信玄と並び称された上杉謙信、今も伝説的な最強の武将として名高い。その謙信の養子として迎えられた景勝の時代に、兼続も春日山城に入り謙信の影響を受けた。「上に立つ者の心構えとは」ということを学んだのだ。

ところが、その謙信天正6年3月13日に急死した。そこに起こったのが、もう一人の養子景虎との跡目争いである御館の乱(おだてのらん)である。国内を二分するこの戦いに勝ったのは景勝だった。その時に、まだ若い兼続を側近のトップに抜擢する。さらに、兼続は後継者のいなくなった名門の直江家を継いで直江兼続と名乗り、筆頭家老として執政の地位に就いた。

その後は、新発田重家の攻略、佐渡の平定などの軍事面でも活躍し、軍師としても活躍し、賤ヶ岳の戦いの後には羽柴秀吉の側近の石田三成と接触する。これが上杉家の存続に貢献する。慶長3年の正月、秀吉の命令で景勝が越後から会津へと転封された時には、三成と一緒に庶政に当たる。新領地に転封されたりすると、地元の抵抗(一揆)などが起きたりして失脚する大名も多かったが、兼続は三成と庶政に当り無事安泰に通した。

その後、兼続が中心となって新しい居城の神指(こうざし)城の築城にかかり、石高増に伴い家臣も増やし武具を買い入れた。これが近隣の大名からは「上杉は合戦の準備をしている」と映り、徳川家康の耳にも入った。それにより家康から糾弾する書状が届く、それを批判する返書として書かれたのがかの有名な「直江状」である。

 この後は、家康の会津攻め、三成の挙兵と関ヶ原の戦いへと続く。景勝が120万石から30万石へと減らされた時にもリストラはせず、家臣の殆どをそのまま連れて行った。また、直江石堤とも呼ばれた堤防を築くなどの民政にも手腕を発揮した。

 

この武将の失敗にも見習うべし

 

f:id:kuromekawa28:20141217100751j:plain 大内義隆

武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型ともいわれたその評価とは?

家臣の陶隆房(後の晴賢)により下克上に遭ったが、当時は政治から逃避して寵臣の相良武任を重用して政治が乱れ始めていた。一時は、周防・長門、備後・安芸、石見のみならず九州の豊前・筑前を支配し、肥前の龍造寺氏も服従を申し出る大勢力を有していた。

では、そんな義隆がなぜ政治を放り出したのか?

決定的だったのは、天文11年の出雲遠征の失敗だったとされている。義隆は自らが総大将となり、養子の晴持をはじめ譜代の重臣たちを率いて山口から出陣し、尼子晴久の居城である月山冨田城を攻めたが1年以上攻めても落とすことが出来なかった。

そればかりか、城攻めに加わっていた家臣の中から尼子方に寝返る者が続出し、逆に義隆側が背走する結果ともなった。しかも、背走途中に後継者の晴持の乗った船が転覆し、晴持が死んでしまうことになった。

大内氏の本拠地の山口は、義隆以前から戦国3大文化の一つともされる大内文化が根づいていて、京都からかなりの数の公家が下向していた。

尼子との戦いに敗れた義隆は、心の拠りどころをそうした公家たちのもたらした学問や芸能に求めていったのである。また、義隆は山口を訪れたフランシスコ・ザビエルと引見し、キリスト教の布教を許したことでも知られている。

こうした世界にのめりこんで行ったことで、出費がかさみ、その経費を天役(臨時の税)という形で領民に賦課した。これが庶民の不満を生み、それを汲み取る形で陶隆房の下克上が決行されたと推測される。

 

織田信長の筆頭家老その生き様とは

f:id:kuromekawa28:20141208194940j:plain 柴田勝家公の像

織田信長の宿老ともいわれた柴田勝家は、はじめから信長の家臣だったわけではない。

信長の弟、信勝の家臣だった。最初に信勝が兄の信長に反旗を翻したときには信勝方として信長と戦った。ところが、2度目の謀反のときには、その動きを信長に密告したため信勝は殺された。その功によって勝家は信長の家臣に迎えられたのだ。こうした経緯で、勝家としては信長に対してよけい忠節を尽くさなければと考えた。命を落とす危険が高い先駆けを志願して、いつしかその勇猛な戦いぶりから「鬼柴田」の異名がつけられた。

 

信長が天正3年、越前一向一揆を平定した後、越前のほとんどといってよい8郡を勝家に与えた。その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、北陸方面軍司令官として、加賀一向一揆との戦いでも大活躍した。

 

ただ、やはり勝家は信長がいたから輝いた存在であった。信長死後、明智光秀討伐にあたっては羽柴秀吉に遅れを取り、それがそのままその後の力関係となってしまった。しかし、天正11年の賎ヶ岳の戦いで敗れた後、北庄城での勝家の最期は「鬼柴田」の異名通りいかにも勝家らしい身の処し方として後々まで語り伝えられいる。

落城前夜には、最期の酒宴を張り、その後、茶々・初・江の3姉妹を城から出し、先ず再婚したばかりのお市を殺し、自らの腹を切り五臓六腑まで掻き出してから介錯させたと言う。これが当時の正式な作法だったとされている。

 

 

 

 

 

外貨を稼いで国力を増強

f:id:kuromekawa28:20141204111150j:plain 長宗我部元親

元親が土佐一国を平定したのは天正2年、それからわずか8年で伊予、讃岐と阿波の四国全土をほぼ統一した。土佐が四国の他の3カ国に比べて、そんなに特別条件が良かったわけではない。石高はわずか9万8000石に過ぎなかった。伊予は36万6000石、阿波は18万3500石である。

では、何故そんなに低い生産力で四国全土を席捲出来たのか?

長宗我部軍は「一領具足」とも呼ばれる地侍で有名だった。有事の際には、一領、つまり一揃いの具足とともに即座に戦場に向かえるように、農作業の時にも具足を田畑に置いて農作業をしていた半農半士の下級武士団という強さの秘密があったのだ。

9万8000石という石高では動員できる兵力にも限りがある。そこで、このような自然地理的環境を活かすプラス思考を考えたのだ。土佐には、元親の時代に作成された「長宗我部地検帳」という名の検地帳が残されていて、それを見ると漆・綿・茶・桑など米以外の農作物が栽培されていた。これらの山国の産物を国内で消費してしまわず、土佐以外の国々に回船業者を使って移出させ、現金収入を得ていたのである。

「外貨稼ぎ」の花形は木材であった。時代は丁度築城ラッシュで、城下町建設が進んでいた時代で、木材の需要が急速に高まっていた。しかも元親は、領内すべての木を「御用木」として、勝手に伐り出すことを禁止し、奉行および職人頭の統制下に置いた。筍採りをも禁止するという徹底振りであった。

 

群雄割拠する時代に、こういう人物もいた

f:id:kuromekawa28:20141130105203j:plain 鍋島直茂

 戦国時代の九州には「九州三強」がいた。

大友宗麟島津義久、竜造寺隆信の3人である。これらが三つどもえの戦いを繰り広げていたのだ。その中の竜造寺の重臣、軍師として君臨していたのが鍋島直茂である。

 

元亀元年の「今山の戦い」では直茂の作戦で大友軍を撃破したが、天正12年の沖田畷の戦いで主君の隆信が討死し、事態は思わぬ方向へと進む。後を継いだ政家が父ほどのリーダーシップを発揮できなかったのだ。このような場合、多くの他家では無能な主君に代わり筆頭の重臣が下克上を起こし主家を乗っ取ることがある。しかし、直茂は、それをせず補佐役に徹した。

 

 天正15年の豊臣秀吉の九州攻めでは竜造寺は秀吉方についた。この時、竜造寺軍は直茂が率いて参戦、当主の政家は出陣しなかった。これに疑念を抱いた秀吉は調べさせたところ、政家の無能、凡庸さが明らかになり、所領没収まではしなかったが政家を隠居させ、わずか5歳の子どもの高房に家督を継がせ後見人として直茂を国事代行させることにした。

 

戦国時代まっただ中では、誰が軍勢を率いているかが意味を持つ、同僚の家臣たちも直茂の軍事指揮に従ううちに、統率力の無い無能な政家や幼い高房ではなく実際に全軍を指揮する直茂を主君として従うようになった。

 

こうして、この時代には極めて珍しい平和的な下克上が行われたのである。