貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

実行力をいかに磨くか

戦国時代は下克上の時代、江戸時代の儒教的武士道徳では「下克上は悪である」という観念で見られるが、ここに一つの例外を見てみる。

陶晴賢(すえはるかた)という武将をご存知だろうか?

周防(山口県)の大内義隆の重臣、守護代を務め、義隆から一字を与えられ隆房と名乗っていたが、下克上により義隆を討ち晴賢と改名した。この「晴」の字は、義隆に代わって擁立した大友宗麟の弟晴英からもらった一字である。

下克上を引き起こした背景は、義隆政権末期の寵臣政治にある。

義隆が寵臣の相良武任を重用し、義隆の側室から正室の座に収まったおさいの方がさして軍功もないのに、自分のお気に入りを取り立てたため批判したことで遠ざけられたことである。重臣の筆頭として、「このままでは大内領国は滅びてしまう」との危機意識を感じた晴賢は、何人かの仲間と相談し下克上に踏み切ったのだ。

晴賢は、当時の言い分を「大内義隆記」にこう記している。

「天の与へをとらざれば、返って其の科をうく。時に至りてをこなはざれば、返って其の科をうく」というものであった。

天文20年8月20日に挙兵した。義隆は館を守ることができず、長門山口県内)深川の大寧寺まで逃れたが9月1日に、そこで自刃した。

その後、晴賢は大友宗麟の弟の晴英を後継者に迎えた。この時の晴賢の思いは、「義隆とその寵臣を除き、民衆を悪政から救いたい」という強い思いがあったとされる。

それは、その後の施策にも表れている。厳島の商業に関する七ヶ条の掟書を出し、厳島における商品流通経済の隆盛を図った。商人たちが海賊たちに警固を名目として金銭を巻き上げられていたのを安全保障に乗り出したのである。

しかし、この晴賢による新政権もわずか3年余りで幕を閉じた。弘治元年の厳島の戦い毛利元就に敗れ、自刃したのである。

だが、その実行力は領下の民衆にとっては大いに評価されている。