貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

今の日本も、この人に外交を見習えば

f:id:kuromekawa28:20141117175459j:plain酒井忠次

徳川四天王」の一人、年齢的にははるかに上で、活躍したのも早い時期だった。

生まれは大永7年(1527年)で、家康よりも15歳年長だった。家康の父、広忠の妹をめとっていて、いわば一族の長老的な存在だった。ちなみに、四天王とは本多忠勝榊原康政井伊直政酒井忠次を言う。

 

忠次の活躍が広く知られるようになったのは、天正3年の三河長篠・設楽原の戦いである。この時には、忠次が織田信長に提案した鳶ヶ巣山の奇襲攻撃が採用され、自らが大将となり、戦局を織田・徳川軍有利に導いた。

 

その他、12年の小牧・長久手の戦いでも戦功を上げ、軍事面において徳川軍団トップの実力をいかんなく発揮した。

 

しかし、忠次の働きは軍事面だけではなく、外交面でも大きなものが見られた。

いわゆる「築山殿事件」といわれるもので、武田との内通を信長に疑われた正室の築山殿と嫡男信康を家康が処断した際に、終始、信長と折衝役にあたった。また、家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐにあたり、北条氏側に直接交渉したのも忠次で、そのころの家康の外交は忠次が一手に引き受けていた。