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織田信長の筆頭家老その生き様とは

f:id:kuromekawa28:20141208194940j:plain 柴田勝家公の像

織田信長の宿老ともいわれた柴田勝家は、はじめから信長の家臣だったわけではない。

信長の弟、信勝の家臣だった。最初に信勝が兄の信長に反旗を翻したときには信勝方として信長と戦った。ところが、2度目の謀反のときには、その動きを信長に密告したため信勝は殺された。その功によって勝家は信長の家臣に迎えられたのだ。こうした経緯で、勝家としては信長に対してよけい忠節を尽くさなければと考えた。命を落とす危険が高い先駆けを志願して、いつしかその勇猛な戦いぶりから「鬼柴田」の異名がつけられた。

 

信長が天正3年、越前一向一揆を平定した後、越前のほとんどといってよい8郡を勝家に与えた。その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、北陸方面軍司令官として、加賀一向一揆との戦いでも大活躍した。

 

ただ、やはり勝家は信長がいたから輝いた存在であった。信長死後、明智光秀討伐にあたっては羽柴秀吉に遅れを取り、それがそのままその後の力関係となってしまった。しかし、天正11年の賎ヶ岳の戦いで敗れた後、北庄城での勝家の最期は「鬼柴田」の異名通りいかにも勝家らしい身の処し方として後々まで語り伝えられいる。

落城前夜には、最期の酒宴を張り、その後、茶々・初・江の3姉妹を城から出し、先ず再婚したばかりのお市を殺し、自らの腹を切り五臓六腑まで掻き出してから介錯させたと言う。これが当時の正式な作法だったとされている。