貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

この武将の失敗にも見習うべし

 

f:id:kuromekawa28:20141217100751j:plain 大内義隆

武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型ともいわれたその評価とは?

家臣の陶隆房(後の晴賢)により下克上に遭ったが、当時は政治から逃避して寵臣の相良武任を重用して政治が乱れ始めていた。一時は、周防・長門、備後・安芸、石見のみならず九州の豊前・筑前を支配し、肥前の龍造寺氏も服従を申し出る大勢力を有していた。

では、そんな義隆がなぜ政治を放り出したのか?

決定的だったのは、天文11年の出雲遠征の失敗だったとされている。義隆は自らが総大将となり、養子の晴持をはじめ譜代の重臣たちを率いて山口から出陣し、尼子晴久の居城である月山冨田城を攻めたが1年以上攻めても落とすことが出来なかった。

そればかりか、城攻めに加わっていた家臣の中から尼子方に寝返る者が続出し、逆に義隆側が背走する結果ともなった。しかも、背走途中に後継者の晴持の乗った船が転覆し、晴持が死んでしまうことになった。

大内氏の本拠地の山口は、義隆以前から戦国3大文化の一つともされる大内文化が根づいていて、京都からかなりの数の公家が下向していた。

尼子との戦いに敗れた義隆は、心の拠りどころをそうした公家たちのもたらした学問や芸能に求めていったのである。また、義隆は山口を訪れたフランシスコ・ザビエルと引見し、キリスト教の布教を許したことでも知られている。

こうした世界にのめりこんで行ったことで、出費がかさみ、その経費を天役(臨時の税)という形で領民に賦課した。これが庶民の不満を生み、それを汲み取る形で陶隆房の下克上が決行されたと推測される。