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直江兼続は最強のナンバー2だった

f:id:kuromekawa28:20141220172211j:plain 直江兼続

 一国の組織の強弱は、その組織のNO.2の力如何で決まる。

あの武田信玄と並び称された上杉謙信、今も伝説的な最強の武将として名高い。その謙信の養子として迎えられた景勝の時代に、兼続も春日山城に入り謙信の影響を受けた。「上に立つ者の心構えとは」ということを学んだのだ。

ところが、その謙信天正6年3月13日に急死した。そこに起こったのが、もう一人の養子景虎との跡目争いである御館の乱(おだてのらん)である。国内を二分するこの戦いに勝ったのは景勝だった。その時に、まだ若い兼続を側近のトップに抜擢する。さらに、兼続は後継者のいなくなった名門の直江家を継いで直江兼続と名乗り、筆頭家老として執政の地位に就いた。

その後は、新発田重家の攻略、佐渡の平定などの軍事面でも活躍し、軍師としても活躍し、賤ヶ岳の戦いの後には羽柴秀吉の側近の石田三成と接触する。これが上杉家の存続に貢献する。慶長3年の正月、秀吉の命令で景勝が越後から会津へと転封された時には、三成と一緒に庶政に当たる。新領地に転封されたりすると、地元の抵抗(一揆)などが起きたりして失脚する大名も多かったが、兼続は三成と庶政に当り無事安泰に通した。

その後、兼続が中心となって新しい居城の神指(こうざし)城の築城にかかり、石高増に伴い家臣も増やし武具を買い入れた。これが近隣の大名からは「上杉は合戦の準備をしている」と映り、徳川家康の耳にも入った。それにより家康から糾弾する書状が届く、それを批判する返書として書かれたのがかの有名な「直江状」である。

 この後は、家康の会津攻め、三成の挙兵と関ヶ原の戦いへと続く。景勝が120万石から30万石へと減らされた時にもリストラはせず、家臣の殆どをそのまま連れて行った。また、直江石堤とも呼ばれた堤防を築くなどの民政にも手腕を発揮した。