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貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

お家大事の戦国武将の生き様は

f:id:kuromekawa28:20150114095743j:plain 真田昌幸

 信州信濃といえば、真田氏という戦国大名が浮かぶ人も多い。もともとは真田氏は武田氏の家臣だった。武田信玄村上義清に取られた信濃の戸石城を取り戻した。そこで活躍したのが真田幸隆で、彼には3人の男子がいて、長男信綱、次男昌輝は天正3年の長篠・設楽原の戦いで戦死した。三男の昌幸は武藤氏を継いでいたが、これにより真田氏を継ぐことになる。

昌幸は武田勝頼の家臣として沼田城を中心に領域支配を進めていた。ところが天正10年3月に武田氏が滅亡し、織田信長に付くこととなった。それも本能寺の変で信長が殺され、その後は北条氏直へ、また徳川家康と仕える主人を変えた。政情が安定しなかったという理由もあるが、「誰につくと有利か」を常に考えて行動していたのだ。

家康から沼田城の明け渡しを命じられた時には、それを拒否して息子の御弁丸(後の幸村)を上杉景勝のところに人質として出し、景勝についた。さらに、豊臣秀吉の方が頼れると思うと、ひそかに御弁丸を秀吉のところへ送った。

こうした昌幸を秀吉自身、上杉景勝宛の書状の中で「表裏比興の者」と表現している。比興はひきょうとも言い、音が同じなので卑怯者と捉えていると思われるが、道理にはずれた不都合な行為という意味である。戦国時代にあっては、いかに家を存続させるかが大命題であり、当然の行為であったとも言える。

関ヶ原の戦いでは、本人と次男が西軍の石田方に、長男の信幸が東軍の家康方に付き、昌幸と次男が名を残し信幸が家を残し、親子兄弟で名も家も残す形となった。