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あの信長に反旗をひるがえした武将

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 摂津の土豪から身を起こした荒木村重、当初は織田信長に抜擢され摂津一国の支配を任されていながら、天正六年に信長に反旗を翻し一族を皆殺しにされたのは何故か?

 

通説では、石山本願寺との戦いのとき、村重の家臣が密かに本願寺に兵糧を売っていたことが露見し、その弁明のため信長のもとに行こうとしたところ、一族や家臣たちから「行けば殺される」といわれ、謀反に踏み切ったという。しかし、実際は信長にそのまま付いてゆくか、毛利輝元に属すかで迷い毛利を選んだためではとも思われている。

 

摂津一国の支配者としての村重は実に有能だった。現在も伊丹市にその一部が残るが、惣構えの築造がそれを物語っている。惣構えとは総構えとも書かれ、惣曲輪とも総曲輪ともいわれるが、城と城下町をすっぽりと包む土塁や堀のことをいう。城下町を囲み、総延長約4キロ、堀の深さが5~7メートル、土塁の高さは3~5メートルほどで城下の民衆を守っていた。織田軍の攻撃を1年近くもはねつけている。

 

残された一族・家臣は天正7年の有岡城落城の後に信長に捕らえられて斬殺され焼殺された。村重および嫡男の村次は、尼崎城および花隈城で抵抗を続けた。最終的には、尼崎から船で毛利氏の下に逃れ、その庇護のもとに余生を送った。道薫と号し利休七哲の一人として秀吉の茶会にも招かれる文化人でもあった。