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謀略による下克上の連鎖

f:id:kuromekawa28:20150324140054j:plain宇喜多直家

 備前の守護といえば、赤松氏で守護代は浦上氏だった。その浦上氏に仕えていたのが宇喜多氏だ。直家の時に戦国大名にのし上がった。大永元年に、浦上氏が赤松守護大名を下克上により乗っ取り、その後の浦上宗景の代になって家臣の宇喜多直家の下克上で倒されている。まさに「下克上の連鎖」がこれである。

 

この現象は、直家の謀略的手段によって永禄2年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まった。二人は浦上宗景の重臣であったが、信正に招待された直家が酒に酔った信正を殺した上、城外に待機させていた家臣とともに信正の城を奪い、救援に駆けつけた観阿弥をも討ち取ったというものだ。

 

その後、直家は隣国備中で勢力を伸ばしつつあった三村家親も謀殺し、家親の後を継いだ子の元親と永禄10年に戦い、これを破って備前を代表する勢力にのし上がった。しかし、この段階まではまだ浦上宗景の家臣で、その2年後に公然と反旗を翻したのである。直家のすごいところは、その戦略眼である。この後に美作にまで勢力を広げようと城を岡山に移している。さらに毛利輝元との同盟に踏み切ったのだ。

 

実は三村元親と毛利輝元はゆるやかではあるが、すでに同盟関係にあった。それを承知で同盟を結ぶという挙に出たのだ。輝元としても、勢いのある直家と結ぶ方が有利と考えた上のことかも知れない。俗に言う「遠交近攻同盟」である。

 

直家は天正3年に、輝元の助けを借りて元親を討って領国を備中・美作にまで拡大し、2年後にはついに宗景も打倒したのである。守護代の一家臣から、下克上により戦国大名の最たる見本となった大名でもあった。