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一門の名を上げた武将とは

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 吉川経家は一門の名を上げた武将として知られている。

一族の吉川元春の要請により織田方の羽柴秀吉との戦いで、毛利方の最前線になると予想された鳥取城に送り込まれた。彼は石見(島根県)の福光城主の吉川経安の子である。

 

 経家が400人ほどの家臣を従えて鳥取城に入ったのは天正9年3月18日である。この時彼は35歳だった。城内はすでに1000人ほどの兵がいたが、秀吉軍が村々の百姓に乱暴を働き、百姓が城に逃げ込むように仕組んだこともあり、非戦闘員の女・子どもも多数いた。このことは、経家にとって大変な誤算で、本来なら冬まで籠城戦を戦い抜くことができるはずの兵糧が見る見る底をついていた。

 

 秀吉軍2万が7月12日から鳥取城を包囲し、兵糧の補給ができなくなると日に日に食糧が減り、草の根、木の皮など食べられるものは何でも食べ、かろうじて命をつなぐ状況となった。毛利輝元からの援軍の動きもなく、ついに降伏を決意し、自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けるように秀吉側に伝えた。

 

切腹の前日10月24日付けで、元春の三男広家に宛て「日本ふたつの御弓矢の堺において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」という遺書を残している。織田と毛利という二大勢力のまさに「ふたつの御弓矢の堺」において、毛利のために戦い切腹に至ったことを名誉に思うと綴っているのだ。

 

 また、切腹当日の25日付けで子どもたちには「我ら一人御ようにたち、おのおのをたすけ申、一もんの名をあげ候」と述べ、武将の責任の取り方を天下に示したみごとな死に方を見せている。