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貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

伊達家の重鎮とはどんな人物か

PHP文庫 伊達成美(しげざね)は、政宗の祖父晴宗の弟の実元の子で、政宗の父輝宗とは従兄弟の関係である。伊達家臣団の中でも猛将として知られ、天正13年の陸奥小手森城攻めでは城内の男女800人を皆殺しにして、その後の人取橋の戦いでは劣勢の伊達軍にあっ…

織田信長に追放された古参家臣とは

佐久間信盛 信盛が他の家臣と違うのは、あの独裁者信長に、建言、諫言をしていたことである。たとえば、弘治元年に出奔した叔父の信次の尾張守山城へ、信長の兄弟の秀俊を入れるように建言してその意見が採用された。 これは織田軍の躍進を支えていた活躍、…

秀吉を読み違え自刃した武将

佐々成政あえ 佐々成政には二人の兄弟がいた。一人は長兄の隼人正、もう一人は孫介という。 弘治2年の尾張稲生の戦いで孫介が、永禄3年の桶狭間の戦いで隼人正が討死にし、成政一人が生き残った。 やがて、織田信長の親衛隊に加えられ、黒母衣衆の一員とな…

一門の名を上げた武将とは

吉川経家は一門の名を上げた武将として知られている。 一族の吉川元春の要請により織田方の羽柴秀吉との戦いで、毛利方の最前線になると予想された鳥取城に送り込まれた。彼は石見(島根県)の福光城主の吉川経安の子である。 経家が400人ほどの家臣を従えて…

文化人としても生きた武将

三好長慶 室町時代最後の武将で、もともとは阿波の守護細川氏の家臣でもあった。長慶の父・元長は、はじめ細川晴元を擁していたが、晴元が一族の三好政長と結託して元長を殺したことから長慶自身もしばらく不遇の時代を過ごした。 天文11年になって、畿内で…

 内紛の中で勢力を伸ばす

津軽為信 江戸時代、陸奥国(青森県)では津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったとされる。それは隣り合う藩同士だけではなく、津軽氏が南部氏内紛のどさくさにまぎれ自立していったからだといわれている。 津軽氏は、本来は南部氏一族の…

謀略による下克上の連鎖

宇喜多直家像 備前の守護といえば、赤松氏で守護代は浦上氏だった。その浦上氏に仕えていたのが宇喜多氏だ。直家の時に戦国大名にのし上がった。大永元年に、浦上氏が赤松守護大名を下克上により乗っ取り、その後の浦上宗景の代になって家臣の宇喜多直家の下…

琉球貿易で財を成した武将

島津義久像 島津氏は鎌倉時代以来の名門で、初代の忠久は元暦2年に源頼朝から島津荘の下司職に任命された。この島津荘というのは、薩摩・大隅(鹿児島)と日向国(宮崎)にまたがる8000町歩を超す壮大な荘園の管理を任されたのだ。 戦国大名家では、ふつう兄…

秀吉との出会いで有名な武将

蜂須賀神社 蜂須賀正勝と言っても思い当たらないが、小六といえばあの豊臣秀吉の「太閤記」に出て来る有名な野武士の棟梁だ。夜盗の親分のように描かれているが、その素性は尾張国の海東郡蜂須賀村の名字を取りその地の士豪だった。 世に出るきっかけは秀吉…

あの信長に反旗をひるがえした武将

摂津の土豪から身を起こした荒木村重、当初は織田信長に抜擢され摂津一国の支配を任されていながら、天正六年に信長に反旗を翻し一族を皆殺しにされたのは何故か? 通説では、石山本願寺との戦いのとき、村重の家臣が密かに本願寺に兵糧を売っていたことが露…

小早川隆景 毛利元就といえば、あの3本の矢で有名ですが、その元就の三男が小早川隆景である。 父、元就の養子送り込み戦略によって小早川家に養子に入り、同じく吉川家に養子に入った兄の元春とともに「毛利両川」ともいわれた。吉川と小早川の2本の川が毛…

みんなご存知、あの虎退治の猛将

加藤清正 加藤清正といえば、豊臣秀吉の家臣の中でも武功派の猛将として有名だが、じつは猛一つの顔があった。それは「築城の天才」「土木の神様」という顔である。 清正は肥後(熊本県)を与えられた時に、主要な河川の流域が荒れているのを見て自分の居城…

お家大事の戦国武将の生き様は

真田昌幸 信州信濃といえば、真田氏という戦国大名が浮かぶ人も多い。もともとは真田氏は武田氏の家臣だった。武田信玄が村上義清に取られた信濃の戸石城を取り戻した。そこで活躍したのが真田幸隆で、彼には3人の男子がいて、長男信綱、次男昌輝は天正3年の…

大人が楽しめるこういう本はいかが

文春文庫版 澁澤龍彦といえば、サド「悪徳の栄え」の翻訳で有名ですが、彼の遺作となった東洋を舞台にした連作短編集「高丘親王航海記」というこの作品は、あまり知られていないでしょうね。 その書き出しは<唐の咸通六年、日本の暦でいえば貞観七年乙酉の…

越後の軍神・上杉謙信は本当に塩を贈ったのか

上杉謙信 毎年のように関東に出兵し、信濃の川中島で武田信玄と5度も死闘を繰り広げた謙信の軍資金は大変豊かだったと言われているが本当なのか? 越後は昔から米どころだったからとか、佐渡の金山・銀山による収入があったからという人が多いが、戦国時代に…

身体障害者ながら勇猛果敢な武将だった

大友宗麟の軍師として知られる立花道雪という武将は身体障害者だった。 落雷のため足を負傷したことで、歩行も困難、馬にも乗れず合戦には参加できない状態だったが、家臣の助けを借りて手輿を担がせて乗り出陣していた。 しかも、味方の陣が崩れそうになる…

直江兼続は最強のナンバー2だった

直江兼続 一国の組織の強弱は、その組織のNO.2の力如何で決まる。 あの武田信玄と並び称された上杉謙信、今も伝説的な最強の武将として名高い。その謙信の養子として迎えられた景勝の時代に、兼続も春日山城に入り謙信の影響を受けた。「上に立つ者の心構え…

この武将の失敗にも見習うべし

大内義隆 武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型ともいわれたその評価とは? 家臣の陶隆房(後の晴賢)により下克上に遭ったが、当時は政治から逃避して寵臣の相良武任を重用して政治が乱れ始めていた。一時は、周防・長門、備後・安芸、石見のみならず九州の…

織田信長の筆頭家老その生き様とは

柴田勝家公の像 織田信長の宿老ともいわれた柴田勝家は、はじめから信長の家臣だったわけではない。 信長の弟、信勝の家臣だった。最初に信勝が兄の信長に反旗を翻したときには信勝方として信長と戦った。ところが、2度目の謀反のときには、その動きを信長に…

外貨を稼いで国力を増強

長宗我部元親 元親が土佐一国を平定したのは天正2年、それからわずか8年で伊予、讃岐と阿波の四国全土をほぼ統一した。土佐が四国の他の3カ国に比べて、そんなに特別条件が良かったわけではない。石高はわずか9万8000石に過ぎなかった。伊予は36万6000石、阿…

群雄割拠する時代に、こういう人物もいた

鍋島直茂 戦国時代の九州には「九州三強」がいた。 大友宗麟、島津義久、竜造寺隆信の3人である。これらが三つどもえの戦いを繰り広げていたのだ。その中の竜造寺の重臣、軍師として君臨していたのが鍋島直茂である。 元亀元年の「今山の戦い」では直茂の作…

今の日本も、この人に外交を見習えば

酒井忠次 「徳川四天王」の一人、年齢的にははるかに上で、活躍したのも早い時期だった。 生まれは大永7年(1527年)で、家康よりも15歳年長だった。家康の父、広忠の妹をめとっていて、いわば一族の長老的な存在だった。ちなみに、四天王とは本多忠勝・榊原…

あの毛利元就の孫は元就の下で成長した

毛利輝元 父の隆元が永禄6年に急死したため、わずか11歳で家督を相続した。 その時点では祖父の元就も健在であったため、元就の後見を受けて成長した。 その2年後、元服する際に将軍・足利義輝から名前の1文字である輝をもらい、輝元と名乗ったものである。…

実行力をいかに磨くか

戦国時代は下克上の時代、江戸時代の儒教的武士道徳では「下克上は悪である」という観念で見られるが、ここに一つの例外を見てみる。 陶晴賢(すえはるかた)という武将をご存知だろうか? 周防(山口県)の大内義隆の重臣、守護代を務め、義隆から一字を与…