貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

2014-01-01から1年間の記事一覧

身体障害者ながら勇猛果敢な武将だった

大友宗麟の軍師として知られる立花道雪という武将は身体障害者だった。 落雷のため足を負傷したことで、歩行も困難、馬にも乗れず合戦には参加できない状態だったが、家臣の助けを借りて手輿を担がせて乗り出陣していた。 しかも、味方の陣が崩れそうになる…

直江兼続は最強のナンバー2だった

直江兼続 一国の組織の強弱は、その組織のNO.2の力如何で決まる。 あの武田信玄と並び称された上杉謙信、今も伝説的な最強の武将として名高い。その謙信の養子として迎えられた景勝の時代に、兼続も春日山城に入り謙信の影響を受けた。「上に立つ者の心構え…

この武将の失敗にも見習うべし

大内義隆 武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型ともいわれたその評価とは? 家臣の陶隆房(後の晴賢)により下克上に遭ったが、当時は政治から逃避して寵臣の相良武任を重用して政治が乱れ始めていた。一時は、周防・長門、備後・安芸、石見のみならず九州の…

織田信長の筆頭家老その生き様とは

柴田勝家公の像 織田信長の宿老ともいわれた柴田勝家は、はじめから信長の家臣だったわけではない。 信長の弟、信勝の家臣だった。最初に信勝が兄の信長に反旗を翻したときには信勝方として信長と戦った。ところが、2度目の謀反のときには、その動きを信長に…

外貨を稼いで国力を増強

長宗我部元親 元親が土佐一国を平定したのは天正2年、それからわずか8年で伊予、讃岐と阿波の四国全土をほぼ統一した。土佐が四国の他の3カ国に比べて、そんなに特別条件が良かったわけではない。石高はわずか9万8000石に過ぎなかった。伊予は36万6000石、阿…

群雄割拠する時代に、こういう人物もいた

鍋島直茂 戦国時代の九州には「九州三強」がいた。 大友宗麟、島津義久、竜造寺隆信の3人である。これらが三つどもえの戦いを繰り広げていたのだ。その中の竜造寺の重臣、軍師として君臨していたのが鍋島直茂である。 元亀元年の「今山の戦い」では直茂の作…

今の日本も、この人に外交を見習えば

酒井忠次 「徳川四天王」の一人、年齢的にははるかに上で、活躍したのも早い時期だった。 生まれは大永7年(1527年)で、家康よりも15歳年長だった。家康の父、広忠の妹をめとっていて、いわば一族の長老的な存在だった。ちなみに、四天王とは本多忠勝・榊原…

あの毛利元就の孫は元就の下で成長した

毛利輝元 父の隆元が永禄6年に急死したため、わずか11歳で家督を相続した。 その時点では祖父の元就も健在であったため、元就の後見を受けて成長した。 その2年後、元服する際に将軍・足利義輝から名前の1文字である輝をもらい、輝元と名乗ったものである。…

実行力をいかに磨くか

戦国時代は下克上の時代、江戸時代の儒教的武士道徳では「下克上は悪である」という観念で見られるが、ここに一つの例外を見てみる。 陶晴賢(すえはるかた)という武将をご存知だろうか? 周防(山口県)の大内義隆の重臣、守護代を務め、義隆から一字を与…