2014-12-01から1ヶ月間の記事一覧
大友宗麟の軍師として知られる立花道雪という武将は身体障害者だった。 落雷のため足を負傷したことで、歩行も困難、馬にも乗れず合戦には参加できない状態だったが、家臣の助けを借りて手輿を担がせて乗り出陣していた。 しかも、味方の陣が崩れそうになる…
直江兼続 一国の組織の強弱は、その組織のNO.2の力如何で決まる。 あの武田信玄と並び称された上杉謙信、今も伝説的な最強の武将として名高い。その謙信の養子として迎えられた景勝の時代に、兼続も春日山城に入り謙信の影響を受けた。「上に立つ者の心構え…
大内義隆 武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型ともいわれたその評価とは? 家臣の陶隆房(後の晴賢)により下克上に遭ったが、当時は政治から逃避して寵臣の相良武任を重用して政治が乱れ始めていた。一時は、周防・長門、備後・安芸、石見のみならず九州の…
柴田勝家公の像 織田信長の宿老ともいわれた柴田勝家は、はじめから信長の家臣だったわけではない。 信長の弟、信勝の家臣だった。最初に信勝が兄の信長に反旗を翻したときには信勝方として信長と戦った。ところが、2度目の謀反のときには、その動きを信長に…
長宗我部元親 元親が土佐一国を平定したのは天正2年、それからわずか8年で伊予、讃岐と阿波の四国全土をほぼ統一した。土佐が四国の他の3カ国に比べて、そんなに特別条件が良かったわけではない。石高はわずか9万8000石に過ぎなかった。伊予は36万6000石、阿…