あの毛利元就の孫は元就の下で成長した
父の隆元が永禄6年に急死したため、わずか11歳で家督を相続した。
その時点では祖父の元就も健在であったため、元就の後見を受けて成長した。
その2年後、元服する際に将軍・足利義輝から名前の1文字である輝をもらい、輝元と名乗ったものである。
元就が没した後は、2人の叔父である吉川元春と小早川隆景の2人が毛利家を守る「毛利両川体制」が出現した。輝元は、この2人の叔父のお陰で元就の全盛期以上に版図を広げた。
ところが、その後に対抗勢力が現われた。
その一人が織田信長で、家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との戦いが繰り広げられた。当初、味方に付けていた宇喜多直家が寝返ったことから守勢に転じたが、その後は秀吉の四国攻め、九州攻めに従軍して豊臣方大名の一員となった。
先見の明があったともいえるが、秀吉びいきの小早川隆景や安国寺恵瓊に引きずられたとの印象もある。自己主張があまり見られず、秀吉死後は西軍敗北の責任を取らされ7カ国を没収され、周防・長門の2カ国へと減封された。
補佐を受けていた頃が一番輝いていたともいえる。