貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

f:id:kuromekawa28:20150206152714j:plain 小早川隆景

 毛利元就といえば、あの3本の矢で有名ですが、その元就の三男が小早川隆景である。

父、元就の養子送り込み戦略によって小早川家に養子に入り、同じく吉川家に養子に入った兄の元春とともに「毛利両川」ともいわれた。吉川と小早川の2本の川が毛利の本家を守るという態勢を作ったのである。長兄の隆元が若くして死に、「毛利両川」は、隆元の子輝元を補佐し、毛利家は織田信長に対抗する大勢力になっていた。

隆景のすごいところは、その先見性である。元就がまだ大内義隆の一家臣だった当時、隆景は人質として義隆のもとに抑留されていた。しかし、人質ながら当主の義隆のこと、家中の様子などを観察して、大内家衰亡の兆候を父のもとに報告していたのである。もう一つは、天正10年6月2日の本能寺の変後、羽柴秀吉が信長の死を隠して講和条約に臨み、備中の高松城清水宗治を救援するため後詰に出ていた兄の元春と隆景の間に停戦協定を結んだが、その直後に信長の死を知った元春はすぐ追撃を主張した。ところが、隆景は秀吉に勢いがあることを知り、秀吉に協力して毛利家を安泰に持って行くことを主張し、その通りになった。そうした経緯から、秀吉からも信任され、四国攻め、九州攻めなどで大活躍し、毛利一門ながら独立の大名と目されていた。

隆景は自分自身の栄達より「毛利両川」の一人としての生き方に徹していた。

本家の当主の輝元にまだ実子がいなかった時、秀吉の腹心の黒田孝高(如水)から「秀秋様を養子に迎えたらどうだ」と打診があった。秀秋とは、秀吉の正室・北政所の兄の木下家定の子である。毛利本家が秀吉の人脈に乗っ取られてしまうと考えた隆景は、すぐさま輝元に一門から養子を迎えさせ「秀秋様をそれがしの養子にいただきたい」と申し出ている。

これら一連の行動は、まさに小早川家が毛利家の盾にもなっているのである。