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 内紛の中で勢力を伸ばす

f:id:kuromekawa28:20150417150000j:plain 津軽為信

江戸時代、陸奥国青森県)では津軽藩主の津軽氏と南部藩主の南部氏の仲が非常に悪かったとされる。それは隣り合う藩同士だけではなく、津軽氏が南部氏内紛のどさくさにまぎれ自立していったからだといわれている。

 

津軽氏は、本来は南部氏一族の大浦氏で、大浦城を本拠に鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになっている。「津軽氏系図」によると、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信が、為則の死後に大浦氏を継いだことになっている。この為信が、本家の南部氏の内紛の間隙を縫って巧みに津軽全域の支配に成功したのである。

 

具体的には、天正6年に浪岡城の北畠顕村を攻め滅ぼし、同13年には千徳政武を田舎館城に攻め入りこれを落としている。こうして南部氏一族の部将から一代で、津軽地方を代表する勢力にのし上がり、「奥州の梟雄」とも称された。為信は津軽全域を支配した頃から名字を大浦から津軽に変えている。

 

豊臣秀吉の小田原攻めにも参陣し、それまでの津軽征服地の本領を安堵され天正19年の九戸政実の乱の鎮圧にも従軍した。この時の軍令状には、はじめて「津軽右京亮(うきょうのすけ)との(殿)へ」とある。中央政権から津軽の名を公認された形である。慶長5年の関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康方に属し、美濃大垣城を牽制する働きをして、その後は城を弘前城に移して近世の大名として生き残った。