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秀吉を読み違え自刃した武将

f:id:kuromekawa28:20160322165523j:plain佐々成政あえ

 佐々成政には二人の兄弟がいた。一人は長兄の隼人正、もう一人は孫介という。

弘治2年の尾張稲生の戦いで孫介が、永禄3年の桶狭間の戦いで隼人正が討死にし、成政一人が生き残った。

やがて、織田信長の親衛隊に加えられ、黒母衣衆の一員となった。同時期に、前田利家が赤母衣衆になっていて、2人のライバル関係が早くから始まっていた。

天正3年8月の越前の一向一揆鎮定後には、不破光治、利家と一緒に越前2部を与えられ、3人とも柴田勝家の与力になり、加賀、越中侵攻の戦いで大活躍して信長の北陸平定に貢献した。

賤ヶ岳の戦いでは、上杉景勝の抑えとして越中にいたため参戦せず、勝家が敗死した後、金沢で秀吉に拝謁して越中支配を任された。ところが、小牧・長久手の戦いでは徳川家康織田信雄陣営に与して秀吉陣営の前田利家と戦っている。

その後、天正13年8月に秀吉の大軍に攻められ、降伏したが秀吉に臣従する形で九州攻めで戦功をあげたため九州平定後に肥後1国を与えられた。ところがまたその後、肥後の土豪らによる検知反対一揆が起こり、自らの力で鎮圧できず小早川隆景黒田官兵衛らの力で収まったことから秀吉は所領を没収した。謝罪のため大坂に向かう途中に、尼崎にて切腹させられた。

 勝家の与力時代が長かったため、秀吉を見る目がなく、秀吉に敗れた勝家の意識に近く秀吉の正当な実力を評価できなかったのが、この結果につながったともいえる。