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織田信長に追放された古参家臣とは

f:id:kuromekawa28:20160425194955g:plain佐久間信盛

 信盛が他の家臣と違うのは、あの独裁者信長に、建言、諫言をしていたことである。たとえば、弘治元年に出奔した叔父の信次の尾張守山城へ、信長の兄弟の秀俊を入れるように建言してその意見が採用された。

 

 これは織田軍の躍進を支えていた活躍、信長による近江攻略で柴田勝家の守る長光寺城とともに、信盛の永原城が六角義賢・義治軍との戦いの拠点となっていた。しかし、天正元年の小谷城攻めの時には、朝倉軍の退却を信盛らが見過ごし、信長から叱責されるということもあったが、この時、他の武将たちは叱られっぱなしであったが、信盛は「そうは言っても、我々ほどの者は他の大名の家臣にはいない」と抗弁もしていた。

このように、信長にはずけずけとものが言えた1人だった。信長はこれらに機嫌を悪くしたが、信盛の実力を高く評価していて、その後も大和平定に出陣している。

 

 これらは能力本位を重んじるいかにも信長らしい人事で、天正4年から本格化する摂津の石山本願寺との戦いでは信盛を総司令官にした。しかし、信盛はこれを攻めあぐねた。これに信長は、怠慢として19ヵ条の折檻状を突きつけ高野山へ追放した。その中には何と、7年前に信盛から抗弁を受けた1件も罪状に上げられていた。執念深い信長の性格が垣間見えるようだ。

 その後は、赦免されることなく、大和の十津川で信盛は病死した。