今の日本も、この人に外交を見習えば
「徳川四天王」の一人、年齢的にははるかに上で、活躍したのも早い時期だった。
生まれは大永7年(1527年)で、家康よりも15歳年長だった。家康の父、広忠の妹をめとっていて、いわば一族の長老的な存在だった。ちなみに、四天王とは本多忠勝・榊原康政・井伊直政と酒井忠次を言う。
忠次の活躍が広く知られるようになったのは、天正3年の三河長篠・設楽原の戦いである。この時には、忠次が織田信長に提案した鳶ヶ巣山の奇襲攻撃が採用され、自らが大将となり、戦局を織田・徳川軍有利に導いた。
その他、12年の小牧・長久手の戦いでも戦功を上げ、軍事面において徳川軍団トップの実力をいかんなく発揮した。
しかし、忠次の働きは軍事面だけではなく、外交面でも大きなものが見られた。
いわゆる「築山殿事件」といわれるもので、武田との内通を信長に疑われた正室の築山殿と嫡男信康を家康が処断した際に、終始、信長と折衝役にあたった。また、家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐにあたり、北条氏側に直接交渉したのも忠次で、そのころの家康の外交は忠次が一手に引き受けていた。
あの毛利元就の孫は元就の下で成長した
父の隆元が永禄6年に急死したため、わずか11歳で家督を相続した。
その時点では祖父の元就も健在であったため、元就の後見を受けて成長した。
その2年後、元服する際に将軍・足利義輝から名前の1文字である輝をもらい、輝元と名乗ったものである。
元就が没した後は、2人の叔父である吉川元春と小早川隆景の2人が毛利家を守る「毛利両川体制」が出現した。輝元は、この2人の叔父のお陰で元就の全盛期以上に版図を広げた。
ところが、その後に対抗勢力が現われた。
その一人が織田信長で、家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との戦いが繰り広げられた。当初、味方に付けていた宇喜多直家が寝返ったことから守勢に転じたが、その後は秀吉の四国攻め、九州攻めに従軍して豊臣方大名の一員となった。
先見の明があったともいえるが、秀吉びいきの小早川隆景や安国寺恵瓊に引きずられたとの印象もある。自己主張があまり見られず、秀吉死後は西軍敗北の責任を取らされ7カ国を没収され、周防・長門の2カ国へと減封された。
補佐を受けていた頃が一番輝いていたともいえる。
実行力をいかに磨くか
戦国時代は下克上の時代、江戸時代の儒教的武士道徳では「下克上は悪である」という観念で見られるが、ここに一つの例外を見てみる。
陶晴賢(すえはるかた)という武将をご存知だろうか?
周防(山口県)の大内義隆の重臣、守護代を務め、義隆から一字を与えられ隆房と名乗っていたが、下克上により義隆を討ち晴賢と改名した。この「晴」の字は、義隆に代わって擁立した大友宗麟の弟晴英からもらった一字である。
下克上を引き起こした背景は、義隆政権末期の寵臣政治にある。
義隆が寵臣の相良武任を重用し、義隆の側室から正室の座に収まったおさいの方がさして軍功もないのに、自分のお気に入りを取り立てたため批判したことで遠ざけられたことである。重臣の筆頭として、「このままでは大内領国は滅びてしまう」との危機意識を感じた晴賢は、何人かの仲間と相談し下克上に踏み切ったのだ。
晴賢は、当時の言い分を「大内義隆記」にこう記している。
「天の与へをとらざれば、返って其の科をうく。時に至りてをこなはざれば、返って其の科をうく」というものであった。
天文20年8月20日に挙兵した。義隆は館を守ることができず、長門(山口県内)深川の大寧寺まで逃れたが9月1日に、そこで自刃した。
その後、晴賢は大友宗麟の弟の晴英を後継者に迎えた。この時の晴賢の思いは、「義隆とその寵臣を除き、民衆を悪政から救いたい」という強い思いがあったとされる。
それは、その後の施策にも表れている。厳島の商業に関する七ヶ条の掟書を出し、厳島における商品流通経済の隆盛を図った。商人たちが海賊たちに警固を名目として金銭を巻き上げられていたのを安全保障に乗り出したのである。
しかし、この晴賢による新政権もわずか3年余りで幕を閉じた。弘治元年の厳島の戦いで毛利元就に敗れ、自刃したのである。
だが、その実行力は領下の民衆にとっては大いに評価されている。