貴方は何に関心がありますか?

世の中は移りにけりか何事も、人の思いも変わりけり

琉球貿易で財を成した武将

f:id:kuromekawa28:20150307185401j:plain 島津義久

島津氏は鎌倉時代以来の名門で、初代の忠久は元暦2年に源頼朝から島津荘の下司職に任命された。この島津荘というのは、薩摩・大隅(鹿児島)と日向国(宮崎)にまたがる8000町歩を超す壮大な荘園の管理を任されたのだ。

 

戦国大名家では、ふつう兄弟争いを未然に防ぐため男子が何人か居る場合には、家督を継ぐ者を1人残しあとは養子に出したり、寺に入れたりしていた。ところが、父の貴久は、長男義久、次男の義弘、三男の歳久、四男家久を全部手元で育てた。4人兄弟の結束力は固く、4人の軍団長の結成という形となった。

 

長男義久は幼名を虎寿丸といい、13代将軍足利義輝から義の1文字を与えられ、義久と名乗り永禄9年に家督を継いだ。以後、4兄弟が力を合わせ九州全土をほぼその支配下に置いた。その軍事行動を可能にしたのが琉球貿易だった。義久がその権限を一手に握ったのだ。この頃、この貿易を独占することは中国・明との貿易による利益を得られることを意味していた。明は海禁政策をとっていて、日明貿易を直接行うことは出来なかったのである。一方、琉球は一つの独立国で、明とは朝貢貿易を行い、そのお返しの品が明から琉球に下賜されるという貿易の形をとっていた。その品物が、今度は日本と琉球の貿易により日本に渡っていたのである。

 

制限された貿易ではあったが、絹・砂糖・染料の蘇木の輸入を一手に引き受け、儲けを独占することで島津氏の財政基盤を固める決定的要因となったのだ。

 

 

秀吉との出会いで有名な武将

f:id:kuromekawa28:20150302201538j:plain 蜂須賀神社

 蜂須賀正勝と言っても思い当たらないが、小六といえばあの豊臣秀吉の「太閤記」に出て来る有名な野武士の棟梁だ。夜盗の親分のように描かれているが、その素性は尾張国の海東郡蜂須賀村の名字を取りその地の士豪だった。

 

世に出るきっかけは秀吉との出会いである。それまでは母の出身地とされた尾張の丹羽郡宮後村で、木曽川の舟運にかかわる川筋衆として活躍し、美濃の斉藤道三、尾張の犬山織田氏などの傭兵として戦いにも参加していた。

 

織田信長の力が尾張から美濃へと伸びて行く過程で、秀吉が川筋衆と接触し、その軍事力と機動力を織田陣営に取り込んだ時に出会ったものである。

 

木曽川筋を生活基盤としていた正勝は、川の流れを制御する知識を持っていて、秀吉はその特殊な才能を使いこなしたのだ。

 

また、正勝は外交交渉能力も持ち合わせていた。1583年に賎ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破った後、喫緊の課題として毛利輝元と戦わずして屈服させたいということがあった。その重要な任務を任されたのが正勝と黒田官兵衛孝高だった。この時、城明け渡しを拒む毛利方の武将を説得し見事にこれを成し遂げた。

 

正勝はその後1585年の四国攻めには病をおして出陣したが、病床につき翌年の5月に大坂で没した。その論功行賞として阿波一国を子の家政が拝領している。

 

 

 

あの信長に反旗をひるがえした武将

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 摂津の土豪から身を起こした荒木村重、当初は織田信長に抜擢され摂津一国の支配を任されていながら、天正六年に信長に反旗を翻し一族を皆殺しにされたのは何故か?

 

通説では、石山本願寺との戦いのとき、村重の家臣が密かに本願寺に兵糧を売っていたことが露見し、その弁明のため信長のもとに行こうとしたところ、一族や家臣たちから「行けば殺される」といわれ、謀反に踏み切ったという。しかし、実際は信長にそのまま付いてゆくか、毛利輝元に属すかで迷い毛利を選んだためではとも思われている。

 

摂津一国の支配者としての村重は実に有能だった。現在も伊丹市にその一部が残るが、惣構えの築造がそれを物語っている。惣構えとは総構えとも書かれ、惣曲輪とも総曲輪ともいわれるが、城と城下町をすっぽりと包む土塁や堀のことをいう。城下町を囲み、総延長約4キロ、堀の深さが5~7メートル、土塁の高さは3~5メートルほどで城下の民衆を守っていた。織田軍の攻撃を1年近くもはねつけている。

 

残された一族・家臣は天正7年の有岡城落城の後に信長に捕らえられて斬殺され焼殺された。村重および嫡男の村次は、尼崎城および花隈城で抵抗を続けた。最終的には、尼崎から船で毛利氏の下に逃れ、その庇護のもとに余生を送った。道薫と号し利休七哲の一人として秀吉の茶会にも招かれる文化人でもあった。

 

 

 

f:id:kuromekawa28:20150206152714j:plain 小早川隆景

 毛利元就といえば、あの3本の矢で有名ですが、その元就の三男が小早川隆景である。

父、元就の養子送り込み戦略によって小早川家に養子に入り、同じく吉川家に養子に入った兄の元春とともに「毛利両川」ともいわれた。吉川と小早川の2本の川が毛利の本家を守るという態勢を作ったのである。長兄の隆元が若くして死に、「毛利両川」は、隆元の子輝元を補佐し、毛利家は織田信長に対抗する大勢力になっていた。

隆景のすごいところは、その先見性である。元就がまだ大内義隆の一家臣だった当時、隆景は人質として義隆のもとに抑留されていた。しかし、人質ながら当主の義隆のこと、家中の様子などを観察して、大内家衰亡の兆候を父のもとに報告していたのである。もう一つは、天正10年6月2日の本能寺の変後、羽柴秀吉が信長の死を隠して講和条約に臨み、備中の高松城清水宗治を救援するため後詰に出ていた兄の元春と隆景の間に停戦協定を結んだが、その直後に信長の死を知った元春はすぐ追撃を主張した。ところが、隆景は秀吉に勢いがあることを知り、秀吉に協力して毛利家を安泰に持って行くことを主張し、その通りになった。そうした経緯から、秀吉からも信任され、四国攻め、九州攻めなどで大活躍し、毛利一門ながら独立の大名と目されていた。

隆景は自分自身の栄達より「毛利両川」の一人としての生き方に徹していた。

本家の当主の輝元にまだ実子がいなかった時、秀吉の腹心の黒田孝高(如水)から「秀秋様を養子に迎えたらどうだ」と打診があった。秀秋とは、秀吉の正室・北政所の兄の木下家定の子である。毛利本家が秀吉の人脈に乗っ取られてしまうと考えた隆景は、すぐさま輝元に一門から養子を迎えさせ「秀秋様をそれがしの養子にいただきたい」と申し出ている。

これら一連の行動は、まさに小早川家が毛利家の盾にもなっているのである。

みんなご存知、あの虎退治の猛将

f:id:kuromekawa28:20150124114643j:plain 加藤清正

 加藤清正といえば、豊臣秀吉の家臣の中でも武功派の猛将として有名だが、じつは猛一つの顔があった。それは「築城の天才」「土木の神様」という顔である。

清正は肥後(熊本県)を与えられた時に、主要な河川の流域が荒れているのを見て自分の居城となる熊本城を築城する前に緑川・白川などに堤防を築いている。これがいまも清正堤防として残っている。また、熊本城の石垣や清正が手伝い普請して加わった名古屋城の石垣は、美しい曲線が特徴で「扇の勾配」などともいわれ、築城術においても能力がいかんなく発揮されている。

これは実は、清正の家臣の中に土木技術を持った有能な家臣がいたのである。それが二人の家老・飯田覚兵衛と森本儀太夫であった。そこには能力本位の人材抜擢があったからでもある。その方法は、誰を役職につけるか、家臣たちの入札、つまり今で言う投票によって決めていたというのである。

ある時の入札で、自分の名前を書いて投票した者が出た。これが発覚したのは記名投票だったのであろう。自選したのは坂川忠兵衛という家臣で、怒った清正は早速、忠兵衛を呼び出して詰問したところ、当人は臆することなく「他人のことはわからない。自分のことを一番よく知っているのは自分自身だ。母衣武者として最適なのは自分自身だと思ったので、自分の名前を書きました」と答えた。清正はこれに納得し、忠兵衛を母衣武者に加えたといわれる。

お家大事の戦国武将の生き様は

f:id:kuromekawa28:20150114095743j:plain 真田昌幸

 信州信濃といえば、真田氏という戦国大名が浮かぶ人も多い。もともとは真田氏は武田氏の家臣だった。武田信玄村上義清に取られた信濃の戸石城を取り戻した。そこで活躍したのが真田幸隆で、彼には3人の男子がいて、長男信綱、次男昌輝は天正3年の長篠・設楽原の戦いで戦死した。三男の昌幸は武藤氏を継いでいたが、これにより真田氏を継ぐことになる。

昌幸は武田勝頼の家臣として沼田城を中心に領域支配を進めていた。ところが天正10年3月に武田氏が滅亡し、織田信長に付くこととなった。それも本能寺の変で信長が殺され、その後は北条氏直へ、また徳川家康と仕える主人を変えた。政情が安定しなかったという理由もあるが、「誰につくと有利か」を常に考えて行動していたのだ。

家康から沼田城の明け渡しを命じられた時には、それを拒否して息子の御弁丸(後の幸村)を上杉景勝のところに人質として出し、景勝についた。さらに、豊臣秀吉の方が頼れると思うと、ひそかに御弁丸を秀吉のところへ送った。

こうした昌幸を秀吉自身、上杉景勝宛の書状の中で「表裏比興の者」と表現している。比興はひきょうとも言い、音が同じなので卑怯者と捉えていると思われるが、道理にはずれた不都合な行為という意味である。戦国時代にあっては、いかに家を存続させるかが大命題であり、当然の行為であったとも言える。

関ヶ原の戦いでは、本人と次男が西軍の石田方に、長男の信幸が東軍の家康方に付き、昌幸と次男が名を残し信幸が家を残し、親子兄弟で名も家も残す形となった。

 

大人が楽しめるこういう本はいかが

f:id:kuromekawa28:20150109155120p:plain 文春文庫版

 澁澤龍彦といえば、サド「悪徳の栄え」の翻訳で有名ですが、彼の遺作となった東洋を舞台にした連作短編集「高丘親王航海記」というこの作品は、あまり知られていないでしょうね。

その書き出しは<唐の咸通六年、日本の暦でいえば貞観七年乙酉の正月二十七日、高丘親王は広州から船で天竺へ向かった。ときに六十七歳。したがうものは安展に円覚、いずれも唐土にあって、つねに親王の側近に侍していた日本の僧である。>とあります。

「高丘」親王とは平安時代初期の実在の人物で、父は平城天皇である。政変にからんで皇太子を廃され、若くして出家して空海の高弟となり、晩年は唐から天竺に旅立って行方不明になったと伝えられています。しかし、こちらの親王は史実を超えて幻想の世界へと読者をぐんぐん惹き付けさせのめり込んで行く面白さがあります。

人の言葉を話すジュゴン(儒良)、下半身が鳥の美女ばかりの後宮(蘭房)、エロチックな夢を食べる獏(獏園)、謎の秘薬の力でミイラとして葬られた歴代王の妻たち(蜜人)などの登場人物たち。行く先々で出会う摩訶不思議な生き物たちに加え、親王の頭には父の寵姫だった藤原薬子の幻影がしょっちゅう浮かんで来る。

そして、最後は病に倒れ死期を悟った親王は、自ら虎に食われて天竺にわたることを望む。朝の光の中で一行が見つけたのは<モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった>そして小説は何事もなかったように閉じられる。

<享年六十七、ずいぶん多くの国多くの海をへめぐったような気がするが、広州を出発してから一年にも満たない旅だった>とあります。

この小説が本になるのを待たずして著者は逝きました。幻想を振り払うかのような幕引きがそこにはありました。